「障がい者であることが楽しくなる社会を作りたいんだよね」
そう、全盲の社会起業家は笑いながら言いました。お名前は久保博揮さん。
いじめ、ひきこもり、そして失明という様々な困難を乗り越え、現在は自身が立ち上げた団体「日本ダイバーシティ推進協会」の代表を務めています。
「障がいが楽しい」だなんて私も最初はどういう意味だろうと思いましたが、お話を聴いていくうちに、そういう社会はきっと素晴しいだろうなと思うようになりました。
久保さんがどういった活動をしているのか、そして多くの困難をどのように乗り越えたのか、お話を伺ってみました。
目次
違いを価値に変える団体
よろしくお願いします!
まず、日本ダイバーシティ推進協会とはどういう団体なのでしょうか?
「違いを価値に変える」を理念に、就労困難者が自分らしく働ける未来づくりをビジョンに活動しています。発足は2011年12月で、もうすぐ丸5年経つ一般社団法人です。
主な事業としては、働くことをあきらめかけている若者のための就労支援をしています。
行政の委託事業で若者が自由に集える「居場所」を提供し、居場所を中心に、個別相談や就労体験、就職活動の寄り添い支援もしています。
その他は、コミュニケーショントラブルや採用に困難を抱える企業様の研修やコンサルティングを行っています。「就労困難者」と「採用困難社」の双方から課題解決に取り組んでいるのです。収益構造は、ソーシャルビジネスとして、稼げるところから稼いで、稼げない部分は非収益事業として行っています。
日本ダイバーシティ推進協会(JDNA)のシンボルマーク
なるほど。
就労が困難な方というのはうつ病やひきこもりなど様々なハンディキャップを持つ方がいて大変なのではないかと思うのですが、どういったところにやりがいや苦労を感じますか?
大変なこともありますけど、最近は仕事を面白がれるようになってきました。最初は私も対応が分からず、一喜一憂していました。でも利用者の皆さんが何を求めているかというと、どんな自分であっても、相手(支援者)がブレないこと。ブレないことが安心感につながるのだと思います。自分の現在地が分からない皆さんなので、支援者がいちいちうろたえると余計不安になってしまうんです。何をされてもどんな毒を吐かれてもこっちがぶれないということを大事にしています。
時々「バカヤロー!」みたいなことも言われますし、自分もマイナスの感情を感じないわけではないですから、残念だなぁとは思いますけど、まず「絶対否定せず一旦受け止める」。そんな安心感の中から本人の力で徐々に人間関係を作り直していくんです。そうした時に人の成長や可能性が見えて、やりがいを感じます。すごくネガティブなところから、一ミリぐらいのポジティブなきざしが見えるという感じなので、やりがいと苦労はセットです。
心配すればよいということではないのですね。
他に気をつけていることはありますか?
支援者が陥りがちな罠は、相手にポジティブな変化を求めがちなところです。
もちろんポジティブな変化があれば嬉しいですけど。でもぼくらが何を大事にしているかというと、支援者自体が当事者である場合が多く、プラスでい続けるのが大事なことではないことは分かっているので、利用者の皆さんがどれだけ落ちてもぼくらはぼくらでブレないということです。そこは覚悟を決めてやっています。たとえば利用者さんが一人亡くなってしまったとしても、「自分達に何もできなかった」と言って仕事をやめるつもりはなくて、それは真摯に受け止めて次に生かせるようにという覚悟でやっていますね。
ポジティブな変化があれば嬉しいけど、なくてもOKというスタンスが、「どんな自分でいてもいいんだ」という存在肯定になります。ぼくらは存在肯定を大事にしているので、就職しなくてもOKだし、就職したらなおさらOKなのです。放置とは違うんですけどね。
どっしりと構える事が大事なのですね。凄まじい覚悟を感じます。
失明をきっかけに、人の視線恐怖から解放された
次に久保さんご自身のことについてお聞きしたいのですが、ひきこもりや失明など様々な困難を乗り越えてきたそうですね。詳しく教えてもらってもよろしいでしょうか?
中学二年生までは普通の子どもでした。ですが中学三年生の頃から外見のことを馬鹿にされたりし始めて、思春期ということもあり、自分に自信がなくなったんです。
クラスでは非常に孤独で、視線が怖くないクラスメイトは一人しかいなかったです。その子以外は目の奥にぼくを馬鹿にしているものを感じていたんです。それから人の視線がすごく怖くなってしまって、高校に入る頃あたりから幻聴まで出てきました。あるとき肺炎になって高校を一週間くらい休んだんですけど、そうすると人に会わないじゃないですか。「人の視線ってないとこんなに楽なんだな」と思ったら、そこから行けなくなってしまいました。
そういった視線恐怖からひきこもってしまったのですが、幸か不幸か17歳から視力に異変を感じ始めました。次第に病院に行かなくてはいけないくらい見えなくなったのですが、目が見えなくなることよりも人に会うことが怖かったので半年くらい病院には行かなかったんです。あるとき親が気づいて病院に連れて行かれたのですが既に手遅れで、それから2年くらい闘病しましたね。それから視力が良くなったり悪くなったりして、ちょうど阪神淡路大震災のときに全く見えなくなりました。
でも、私はそれで安心したんです。人の視線が怖くてたまらなかったので、目が見えなくなったおかげでストレスがなくなったんです。ストレスフリーな状態なので、そのおかげでぼくは外に出ることができました。
失明がきっかけで逆に外に出られるようになったというのはなんとも不思議な話ですね。
では、もし目が見えなくなっていなかったら……
分からないですね。「どうやって辛い経験を乗り越えたのですか?」とよく聞かれて、その度にぼくは「乗り超えていないです」と答えるんですけど、それはもし今ぼく目が見えるようになったら、いまだに引きこもる自信があるからなんです(笑)20年ぶりの人の視線を見たらたぶん引きこもるだろうなと思います。
ただ今は本当につながりもあるし、孤独じゃないし、愛してくれている人もいるので、ひきこもることがあっても週のうち何日かひきこもる「分割ひきこもり」かなって思いますが。
なるほど…。でも、ひきこもっていた状況で、さらに失明してしまったら、私でしたら人生が嫌になってしまったと思うのですが、それからどうやって立ち直ったのですか?
本当にもう死ぬつもりだったんです。「どうしたら人に迷惑をかけずに死ねるのか」と本気で考えていました。
でも、目が完全に見えなくなって命と向き合っていた頃にちょうど阪神淡路大震災が起きて、その時、中学校で唯一自分をかばってくれていた男友達が神戸で亡くなってしまったんですよ。目が見えなくなってグダグダ寝ながら過ごしていたら、震災後から半年後ぐらい経ってそのニュースが親伝いに来たんです。
では、それがきっかけで立ち直ったと……?
綺麗ごとにするならば、「彼は不慮の事故で死んでしまったから、ぼくは頑張って生きよう」みたいになると思うんですけど、そういう綺麗ごとじゃないんです。ぼくは惨めだったんですよ。
彼はすごく優秀で、国立大学に行って、男女からも好かれて、学級委員とかもやっていて、おまけにスポーツもできて、というような、コンプレックスだらけのぼくからすると憧れの男子だったんです。そんな彼が死んで、この虫けらみたいなぼくが生きてるって言うのが、とても惨めだったんです。彼の死が悲しかったって言うよりは、虚しかったんですよ。自分が生きていること自体が。それでけっこう泣きました。どれくらい泣いたか分からないですけど、悲しくて悔しくて泣いていました。彼が亡くなったのが悲しいんじゃなくて、自分が虚しくて。それで泣いて泣いて悔しくて虚しくて、もう死にたい気分絶頂でした。でも彼のことや、震災による6000人くらいの犠牲者のニュースを毎日見ていると、とても自分から命を絶つことはできなくて、「死ぬ」という選択肢がなくなってしまったんです。
で、もう生きていくしかないという状態になったときに、ぼくは社会に対する復讐心のようなものをエネルギーにしました。馬鹿にされたとか先生に大事にされなかったとか、その恨みつらみを、どうせ生きていかなきゃいけないんだったら、まったく存在価値のない自分に価値を作り出して社会を見返してやるんだって思ったんです。
そこからようやく人生を再開させ、リハビリセンターに通うことからはじめて、点字やITを学びました。21歳で盲学校、25歳で大学に進学しました。
でもその原動力は、繰り返しますが、惨めさと悔しさと虚しさからきた「復讐心」とも言えるくらいのネガティブな感情なんですね。それが30歳くらいまでは根底でつながっていたと思います。
>>次ページ:自分自身が自分を差別していた。
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