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「海外でヒットしたい」という想いを原動力に、
EMERGENZA世界大会へ。
ーその後、なぜninja beatsを結成することになったのですか。
早稲田祭のステージに立つという大きな目標を達成し、次にどうしようと思っていました。ところが、エレキバイオリンの相方が2年から1年間海外に留学に行ってしまうことになったのです。そんな時に、同じサークルで2つ年上の先輩だった新さんから声をかけていただき、新さんとバンドを組むことになりました。
ーそこから現在の演奏スタイルを確立されるまでの経緯を教えてください。
最初は今とは全然違う演奏法をとっていました。今使用しているような高性能の機材もなく、初号機と呼んでいたほど機能性の低いルーパーと、マイクとウクレレしか使っていませんでした。曲もカバーが基本で、今思えば単なるビートボックス+ウクレレだったと思います。
ただ、元々ふたりとも「海外でヒットしたい」という想いがあり、その想いの元でふたりの持っていた得意分野を少しずつかけ合わせていったら、次第に現在の演奏スタイルが出来上がっていきました。新さんのオリジナル曲に僕のダンス系のヒューマンビートボックスの要素を織り交ぜていったら、少しずつ今のダンス系でポップ性のある演奏に仕上がっていったイメージですね。
ルーパー*:音をリアルタイムで重ねていって音が増えていく機材
和服姿に身を包んだninja beatsのおふたり
ー2014年の9月に渡米して路上ライブを行われたそうですが、それも海外でヒットしたいという想いがあってことですか。
そうですね。結成して3,4か月後くらいに行きました。このライブでは、日本とは違った反応に驚きました。欧米の人は、周りの人が応援していなくても、自分がいいなと思ったらひとりでも応援してくれるんです。日本だと周りの人が盛り上がってないと盛り上がってくれない面もあるので。非常にウケがよく、声をかけてくれたり、中には路上ライブのアドバイスをしてくれる人もいました。ニューヨークでのお客さんの反応を見て「海外でのウケは間違いなくいいんだろうな」と手ごたえを感じましたね。だから、国内のEMERGENZAの大会だけでなく、世界のEMERGENZAの大会にもチャレンジしてみようと思いました。新さんが名付けた”ninja beats”という名前も海外ウケを狙ったものですし、元々は和服で演奏していたのでビジュアル的にもウケがよかったのだと思います。「今までの海外の人向けの構想が全てクリーンヒットした」という印象でした。
ーウケが良かったとはいえ、最初は上手くいくことばかりではなかったと思います。どんな課題があり、どうやってその課題を乗り越えられましたか。
最初はやっぱりヒューマンビートボックス×楽器ということで、珍しがってもらえるのですが、一方で一発屋になってしまう可能性がありました。また、口とウクレレひとつだとどこか音が物足りなく、飽きられてしまう可能性もありました。
そこで、新さんのエフェクターや僕の新しい機材を導入して、音をもっと重ねていけるようにしました。さらに、飽きさせないために同期の歌手や先輩の三味線演奏家といった、他のアーティストも巻き込んでいきました。というのも「何か音がもの足りない」理由を突き詰めて考えていった結果、二人だけでは足りないという結論に至ったからです。実は、現在ダンスミュージックで活躍されているアーティストさん特別参加のアーティストさんを巻き込んでオリジナル曲を作っています。そういった手法も参考にしました。
最初のコラボは、TEDXwasedaでの三味線演奏家の響さんとの演奏でした。その後、EMERGENZAの準決勝でさらに人を巻き込んでいく必要性を感じたので、同期の歌手の愛子にも協力してもらうことになりました。これらの新機材導入や他のミュージシャンとのコラボなどが功を奏した結果、無事にEMERGENZAの世界大会で優勝を収めることができました。
三味線演奏家の響さんとコラボした演奏の様子。会場が熱気に包まれている。
ーEMERGENZAの世界大会で優勝されるまで、どういった練習をされていましたか。
練習の仕方自体は、普段とあまり変わらなかったです。大会前でなくても「何が重要か」を常に考えながら練習しています。よく飛び交うのは「見せ方をもっと良くしよう」という言葉です。ビートボックスを演奏する時、下を向いて演奏しているだけではリアルタイムで口から音を出していることが伝わりにくく、価値にも勝ちにも繋がらないので。ただ、練習だけではどうしてもカバーしきれない面もあるので、本番を重ねていくなかで「どうやったら上手く音のリアリティを表現できるか」を日々考えています。
次のページ→想いを実現するツールを好きになれば、きっと成功に繋がる。
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