「今日の授業は作文だよ〜」
そう言われたら、子どもの頃のあなたはどんな反応をする?
「え~」と不満を目の前にいる教師にぶつける?
声に出さずともめんどくさ~いと思う?
それとも、待ってました!と喜ぶ?
私は3つ目の反応をする子どもだった。
文章を書くことが、何よりも好きだった。
そのあたりの才能があると思っていたし、「将来は出版系の仕事もいいかも……!」と考えていた時期もあった。
でも大学生になって、ガクセイ基地という「文章を書いてナンボ」のような団体に入って、文章を書くことを全く愛せなくなった。
なんで?なんでだろ。
目次
「作文」のポジションーそもそも要らない?
そもそも、「文章を書くことが好き!」という人間が世の中にどれほどいるのか。
読書感想文、運動会や学芸会の感想文、新学期の目標や振り返り……
古今東西、そんな宿題に泣かされ、タイムアップを待って先生に妥協してもらう戦法をとっていた少年少女はきっと珍しくない。
Twitterでも、毎年夏ごろになると「読書感想文は必要か」という議論を、当事者でもない大人たちがあの頃の鬱憤を今こそ晴らすときだと言わんばかりに巻き起こす。
メルカリで「読書感想文代行」という商品が出品されるほどだ。
「感想文の宿題で読書嫌いが加速する」
「課題があることで読書の習慣が身につく」……
感想文に対しての主張は多種多様だが、私はどれにも共感できない。
だって結局、大人が求めているのは読書をした感想ではなくて「本や読書によって引き起こされた大人が気に入りそうな道徳表現」じゃない?
そして、大人がギャアギャア騒いでいる間に当事者の少年少女は成長する。
だが、彼ら彼女らは大学生や社会人になっても、レポートを始めとする数多くの「書く」という行為にぶち当たっている。
もしかして私たちは、書くという行為から逃げられない……?
みんな最初から「作文嫌い」ではない
「作文を書くことが嫌い」という感情を分解してみることにする。
第一に、「書けって言われても書き方を教わっていないんですけど??」という不満。
学校で作文の書き方を教わった記憶を見つけられない。あなたにはある?
強いて言うなら「一番下の段に来る句読点は〜」とか「タイトルは上から三マス空けて〜」とか。
ただこれは、作文の書き方というよりも原稿用紙の使い方だろう。
書き方?うーん………
はじめ・なか・おわりとか………????
第二に、「そもそも何を書けばいいかわからない!!」という疑問と困惑。
仮に、今は夏。
読書感想文の課題に立ち向かうとしよう。
自習の時間、あなたは感想文を書こうとする。
本はわざわざ新しく読まなくても、毎日の朝読書で読んでいるものを指名済みだ。
だが、「何を書けばいいかわからない」と困り果て、先生に声をかける。
「本を読んで思ったことを書いて」という回答。
オッケー!わかったよ先生。
「○○が面白かった」「××でどきどきした」と書くことにしよう。
でも、これじゃあ全く作文用紙は埋まらない。また困り果て、先生を席に呼ぶ。
すると、「なぜそう思ったのかを書け」とか「自分の昔の経験と絡めて書いて」、「本を読んで、今後どう行動していきたいと思うか書いて」などの要求が矢継ぎ早に飛んでくる。
………思ったことって言ったじゃん!!何が感想文だ!!!!!感想にいろいろくっつけました文じゃん!!!!!!!!ねぇ!!!!!!
「読んだ本のどんな部分をどのように思ったのかなぜそう思ったのか過去に本の内容に似ている経験をしたならそのことについて書いてこの本はあなたの今後の行動にどう影響するのかについて書きなさい」
………最初からこう言えばいいのに。内容の質はともかく、これも立派な書き方の一部に違いない。たぶん。
書き方をきちんと指導しなければならないと思う教師も日本中にたくさんいるだろう。
だが、大抵その思いは膨大な学習指導要領の内容によって追いやられてしまっている。
結局、作文を書くという行為は自分で考えて文章を生み出す行為ではなく、教師の要求に一つずつ答えながら、なんとか用紙を字で埋めていく作業と思われている。
「もう、今からやろうと思っていたのに!」
有史以前から、人間の自主的に取り組もうとする姿勢を崩すのは命令や強制だと相場が決まっているんだ。
生徒会長、ならなきゃよかった
文章を書くことが好きだったころ、作文の授業中。
周りより早く原稿用紙を埋めて、同級生に驚かれた。
授業が終わったあと。
右手の側面が汚れていればいるほど、達成感は大きくなった。
いっぱい書いた証拠だからね。
では、「文章を書くことが好き」という私の感情は、どうやって分解されて、どうやって崩れていくことになるんだろう。
「文章を早くたくさん書けてすごーい!」
「作文の代表にたくさん選ばれてすごーい!」
よく言われた言葉だ。
自分の価値を周りからの言葉で判断しようとしたら、私は文章を書くことを承認欲求を満たす道具だと考えるようになっていた。
デジタルネイティブという言葉が生まれるほどインターネットが広まり、承認欲求は人間の三大欲求に並び立つと思うほど存在感を大きくした。
もちろん、元々あった欲が見える形になったという考え方もできる。どっちもかも。
自分が小学生や中学生のときにスマホを持っていたらと想像すると、ゾッとする。
先日サービスが終了してしまった3DSのインターネットサービスの世界ですら、私はかなりこじらせていた。
というか、私が家族共用のタブレットか何かを借りてTwitterやInstagramに載せていた内容ってあああああああああ思い出したくもない!!!!!!!!
さらに中学生のころの私は、文章や言葉で承認欲求を満たすことに飽き足らず、世界を変えることすら夢見るようになる。
やべ~~、こう書くと戦隊モノのラスボスみたいだ。
スポーツ、勉強、歌、絵、容姿………それをとっても、私の周りには敵わない相手が多すぎた。
何かで戦うとしたら、きっと文章。
ペンは剣よりも強し。
「コトバの力で世界を変えろ」というドラマの中のセリフに後押しされ、子どもの世界である「学校」を変えたいと願うようになった。
………でも。
念願の生徒会長のポジションに就いたとたん、私は自分が話すときに読む原稿を、文章を書くことが苦しくなった。
圧倒的に、届かないし伝わらない。
誰に?誰にでも。同級生、先輩、後輩、先生にも。
一緒に生徒会に所属していたメンバーにすら伝わっていなかったと思う。
朝礼で読み上げる、地域清掃のお知らせ。募金への協力のお願い。
ノーチャイムデー。チャイムを一日鳴らさないことで時間への意識を高めようとした企画の告知。
卒業式で読んだ答辞。
そのどれもが、確かに生徒会で取り組んだことだったし、するべき仕事だった。
でも、そのどれもが結局はテンプレート通りでしかなかった。
例年通りの、変わることも惑うこともない、きれいな伝統だった。
「テンプレート、形式に沿うだけの活動は嫌だ。」
「せっかくなら去年とは違うことをやりたい。」
………違うことって例えば?
納得のいかない校則について先生側と生徒会役員で話をつけたい。
校則を変える。
古今東西、変わることのない生徒会あるある。
注意する立場だったが、校則のダルさも意味のわからなさもウザさも多少はわかっている。
所詮は自分も中学生だ。
大人の言う「正しさ」について徹底的に聞いてみたかった。
この議論こそ、なんとなくだけど「学校を変える」という概念に一番近いと思ったから。
………結局、私は生徒会に寄せられた校則の不満に対して、「こう書けば丸くおさまるだろう」という想定のもと原稿を用意することになる。
というか、教師側に問うことすらできなかった。
………まぁ、テンプレートを打ち崩そうとする「あるある(=一種のテンプレ)」が起こす結果なんてわかりきってるよね。
「正中線」という言葉を、この間大学の授業で教わった。
なんでも、鼻の先端とへそをまっすぐ結ぶ一本のまっすぐな線……左右対称になる体の中心を通る線のことだという。
この線を、自分と話す相手の正中線と重なるようにする。
そんな姿勢をとりつつ、相手の目を見る。どう足搔いても目を見るようにする。
……そうすると、相手は自分を「話をきちんと聞いてくれる」と考えるのだそう。
そのことを考えてみると、あのときの先生や学校の正中線は私のことを向いていなかったし、私の正中線は投書をくれた人間の方を向いていなかった。
向けようとしていても、その意思が相手に伝わらなきゃ意味がない。
伝えようとしないとどんな言葉も感情も伝わらないのに。
原稿には結局なんて書いたっけ。なんかもう、議論の相手にすらしないような、そんなつっけんどんな回答をした気がする。
あーー結局、私は生徒会長になるために生徒会長になったんだな。
そう気が付いたときには、おしまいだった。
そこから私は、急速に文章を書くことに対する意欲を失っていくことになる。
誰も聞いてくれないから?それもそう。
誰にも響いていない気がしたから?それもある。
有史以前から、人間の自主的に取り組もうとする姿勢を崩すのは命令や強制だと相場が決まっている。
私が「生徒会長として伝えたいこと」は、もうどこにも転がっていなかった。
やさしい地獄、webメディアの世界
私にとってのガクセイ基地は、やさしい地獄だ。
「私にとってのガクセイ基地」では夢のような場所!ってにこにこしていたのにね。
そんなに甘くなかったよ。前と今で言ってることが真逆だ。
でもこの場所が地獄であってくれたからこそ、私は自分の文章に対しての姿勢と徹底的に向き合うことができるようになった。
「投稿頻度」と「閲覧数」。
永遠に終わらない制約と、永遠に解決しようもない課題。
むしろ解決した~!と勝手に喜んで考えることを放棄したら、いろいろと終わってしまう課題。
私のガクセイ基地での目的が、文章を書くことと記事を執筆することだけになった時期があった。
日付に間に合わせなくちゃーって慌ててネタを考える時間は今でもくるしい。
「読まれてナンボ」と大学生に何が刺さるかウケるか考えて、とっておきのものを投稿しても、一日に二桁読まれれば上々。
………情けない話、そのうちの何回かは私自身によるものなんだけど。
ぐるぐる思考がまわる。
ていうか第一、締め切りと評価を考えることしかできなくて、自分の感情もまっすぐに書けないなんて………
読書感想文も大学のレポートもここで書く記事も、今までも今もこれからもずっとずっと何もかもこのまま?
……
それはなんというか、すごく嫌だ。
どうにかしようと足搔いても文章を書けなくなって、創作がうっとうしくなって、書けないことを才能やセンスの無さを嘆くことで甘んじようとして。
基地すら私の場所じゃなかったのかと全部が怖くなったときがあった。
そんなときにちょうど、その絶望をまっすぐに肯定してくれる本に出会った。
【文章で伝えるときいちばん大切なものは、感情である。】
この本の中で、私は筆者に許されなかった。絶対に絶対に許さないなんて言われてしまった。
何故かは「どうぞ本を読んでみて」としか言えない。もしかしたらあなたも許されないかもしれないけど。
若干ヤケクソになった私は、「じゃあ私だっていっそのことあなたを許しませんけど?」と少々理不尽な喧嘩腰マインドで読み進めてみた。
読んでみてわかったこの本の内容は、「こうすれば大勢の人に読んでもらえますよ、わかってもらえますよ」という甘い言葉やテクニックではない。
自分の文章や文章の周りの状況を振り返らせて、絶望した先があるんだと後押ししてくれるようなことが並んでいる。
いや、並んでいるどころか、こちらに訴えかけてくるような迫力すらある。
「書き方を教わってないんですけど??!!?!?!?!」
「何を書けばいいかわからない!!!!!!!」
「書いたところで全然誰にも読まれないし、これじゃなんのために書いているのかわかんない!!!!!!!!」
こうした悩みや嘆きや疑問のひとつひとつに、著者の経験や物語と混ざりながら回答が返ってくる。
きっと本を読み終えたころには、文章術以上に新しい感情を得られるに違いない。
絶望と諦めは似ているようで少しずつ違うと思う。
伝えることを諦めるのは、もうちょっと後でもいいかもしれない。
過去に伝えきれなかった分を取り返すように伝えていきたい。
そうすればたぶん、過去の私を少しでも受け止めて愛せるに違いないから。
書籍情報
著者:pato
発売日:2024年3月28日
出版社:アスコム
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